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2011年3月17日 (木)

東日本大震災の被災地に思いをはせて(1)岩手県議 斉藤信 議員のホームページから

 東日本大震災の被災地に思いをはせて、被災地とその近隣地の日本共産党地方議員が作成しているホームページやブログにアクセスしてみました。写真も掲載されていますが、ここでは便宜上省略トしました。

[岩手県議 斉藤信 議員]

《2011年3月16日》
陸前高田市の大震災の状況を調査
想像を超える大津波、自主的な運営進める避難所


 3月16日、朝7時に党県員会を出発し被害の大きい陸前高田市の大震災調査に向かいました。これには陸前高田市出身の私の事務局長を務める中里隼一君と吉田まちこ県常任委員が同行。岩手に現地対策本部を設置した自治労連の柴田英二中央副執行委員長と高橋県本部副委員長、赤旗記者も自治労連が借り上げたレンタカーで一緒に出発しました。
 7時過ぎにも関わらずガソリンスタンド前で大渋滞しているところがあちこちで発生しています。灯油のタンクを持って並ぶ姿も。ガソリン・灯油不足は深刻。遠野市の荷沢峠を越えるまで県内は雪化粧、冬に逆戻りした寒さ。

ガレキの山の竹駒町、気仙川を逆流した大津波

 9時半ごろ、住田町から陸前高田市の竹駒町に入ると風景は一変しました。国道は辛うじて車が通れるようになっていましたが、道路の周りはガレキの山。気仙川の河口から5キロはあると思われる竹駒町まで逆流した津波の猛威を痛感させられました。少し高台にある保育園まで津波は襲っていました。

高田松原の松の高さを超える大津波
宮城県沖地震による津波の想定を大きく超える


 中里長門前市長宅に到着し、党現地対策本部と打ち合わせ。中心部にある党陸前高田市委員会の事務所もあとかたもなく流されています。中里前市長からは、市庁舎、消防本部が破壊され、270人の市職員のうち約80人が行方不明となっていること。防災担当者が被災し、教育委員会が壊滅的な状況。県立高田病院が4階まで浸水し米崎コミニュティーセンターで臨時診療所を開設して奮闘していると報告されました。市の災害対策本部の体制に限界があり補強が必要との提起もされました。津波の規模は高田松原の松の高さを超えるもので、宮城県沖地震による津波の想定を大きく上回る未曽有のものだった。避難所に指定していた市民会館が津波にのみ込まれた状況だったと報告されました。
 広田町の伊勢さんからは、避難所の状況が詳しく報告されました。

高田一中の避難所を訪問、「1人はみんなのために・みんなは1人のために」
助け合い、自主的に避難所を運営


 1250人の被災者が避難生活を送っている市立高田一中を最初に訪れました。事実上の責任者を務める校長先生から状況を聞きました。まず強調されたことは、「生徒や職員の安否、子どもたちの教育のことが心配だが、避難されてきた被災者の皆さんの安全を守るために全力をあげている」「被災者の皆さんが安心して暮らせるように、避難者自らの力で取り組めるよう自治組織を立ち上げている」とのことでした。大津波の当日には赤ちゃんにミルクをやれず泣きやまない子どものために住田町まで駆けつけて確保してきたことも話されました。また、子どもたちのためには4月からの先生の人事異動を凍結し対応を継続するよう沿岸の校長会議で求めているとのことでした。
 70代、80代のおばあさんに話を聞きました。「住民の避難のために頑張った若い人たちがなくなったことが残念だ」と何度も強調しました。80代の方は、「大東亜戦争の時には学徒動員で三菱造船に行き空襲を受けたが、今回の津波はその時よりも怖かった」と話し「生きているだけでごはんもみそ汁もおいしい」と語っていました。避難所では80歳以上の方には畳が支給されているとのことでした。奥さんと息子さんが行方不明だという男性にも話を聞きました。茫然とした表情で「食べ物があるだけで十分」と話していました。

米崎小学校の避難所に「子ども保育室」を設置
みんなで力を合わせ自主的に運営


 午後からは米崎小学校の避難所を訪ねました。党高田市議の大坪涼子さんも被災し避難所で懸命に頑張っていました。ここでは校舎の一室を「子ども保育室」として乳幼児を持つ家族の方々がおられました。家族と一緒の元気な子どもたちの声が印象的でした。体育館の避難所では責任者の方から話を聞きました。「トイレが足りない。夜間、校庭の反対側にあるトイレまで懐中電灯を持っていかなければならない」「ごみが処理できない」「被災した自宅等で盗難も発生している」などのことが話されました。

不眠不休で奮闘する高田病院の医師、職員
米崎で臨時診療所開設


 米崎コミニティ―センターに開設している県立高田病院の臨時診療所を訪ねました。忙しい中、石木幹人院長から話を聞きました。11日の津波の当日はわずか30分の間に、患者さんを4階に、屋上に避難させるために職員が一体で取り組んだこと。翌日の夕方にヘリコプターで救出されるまでほとんど立ちっぱなしで患者を守るために頑張ったこと。そして救出された米崎コミセンで早速14日から臨時診療所を開設。14日に70人、15日には130人、16日には午前中で140人を超える患者が来たとのこと。文字通り不眠不休での奮闘ぶりでした。院長先生をはじめ職員の方々は被災した時の白衣と服装で診療にあたっていました。石木院長はもう職員は限界。中央病院から派遣される医師に引き継ぎたい。医師、看護士、薬剤師等が全く足りないと強調されました。薬はやっと1週間分出せるようになったが市内の調剤薬局は壊滅し2名の薬剤師だけでは足りない。外来機能は何としても維持したいと強調されました。
 その後、老人保健施設のある松原園を訪れましたが、電気、水のライフラインが確保できず185人の入所者を関連の遠野市や大船渡市の施設に移動したとのことでした。電気、水が会付されれば人工透析は早く再開したい。「高齢者は環境が変わるとストレスが大きい」と述べ老人保健施設も9月頃までには再開したいと述べられました。

市災害対策本部で戸羽市長にお見舞い、激励する

 夕方、給食センターに設置されている市災害対策本部を訪問し、戸羽太市長にお見舞いを申し上げるとともに陣頭指揮にあたっている市町を激励しました。戸羽市長は、被災者、避難所の状況も把握されてきている。市職員自身が被災し市庁舎も崩壊した中で大変だが、職員は一所懸命奮闘している。ガソリン・灯油が不足している。避難所との連絡や物資の支給など危ぶまれる。電気の復旧。衣類・ミルク・紙おむつなどの生活用品、遺体の処理・火葬など課題がたくさんあると訴えられました。
 再び中里前市長宅に集まって一日の活動と状況を交流しました。ガソリンが不足する中で支援活動も大変な状況となっています。夕方には吹雪のような状況になり、避難所での寒さが本当に心配になりました。
 これまでに寄せられた要求と実態について、直ちに県や関係団体に届け、引き続き全力で救援・支援の活動に取り組みます。

《2011年3月13日》
東北地方太平洋沖地震 3月13日・陸前高田市現地レポート
燃料の確保、通信網の整備切実

 3月13日、往復分のガソリンを確保し盛岡市を出発しました。
 住田町に大坂府警のパトカーがあり、ガソリンスタンドは緊急車両用に制限されていました。
 市内に入り、横田小学校に自衛隊の拠点を確認。そこからすぐ近くの気仙川(河口から約10キロ地点)に津波で流されてきたと思われるタンクを確認しました。ニュース等で見るよりだいぶ奥まで津波が押し寄せ、がれきは竹駒保育園を超えたところまで確認できました。
 竹駒町から高田町の避難所方面へ通じる迂回路を通り、陸前高田市立第一中学校の体育館へ。その後、避難所となっている上和野公民館、希望の丘病院、高寿園を訪問しました。
 市内の火葬場に避難した60代の女性は「5分ぐらい大きな揺れで、避難場所の市民体育館に車で向かったが、すでに車でいっぱい。さらに奥を目指し車を走らせ、途中で車を乗り捨てて高台に走った。すぐそこまで波が迫っていた。逆に市民体育館に避難した人たちは波にのまれてしまった…」と話しました。奇跡的な生還です。防災無線で「大津波警報です!高台に逃げてください!」と連呼、昨年のチリ地震津波のときも迅速に避難したとのことでした。
 市立第一中学校の体育館では、NTTが設置した衛星電話と思われるものが1台のみ。長蛇の列ができていました。行くことができた他の避難所では電話設置されておらず、通信網の整備は切実だと痛感しました。
 避難所の方の話では、発電機用の燃料も切実とのこと。暖房をたくにも発電機の稼働が何よりで、特に体育館などの広い施設では暖房が多く必要と訴えていました。
 その後は車を米崎町に走らせました。親戚の家に避難していた漁業者の方は、「漁村はなくなってしまったが、残っている漁民のためにも、共済制度を最大限活用してもらって、生活資金の援助を」と話しました。盛岡の本所での対応が中心でなかなかこちらの声が届かないとのことでした。
 がれきの山を横目に見ながら、米崎中学校を過ぎたところまで移動。そこから見た脇ノ沢地区は壊滅状態でした。
 高台の市立第一中学校から壊滅状態となった市内を見つめる避難者も多く見られました。
 避難所では、家族や知人と再会し抱き合って涙を流す光景も見られました。
 避難所へは行かず実家で待機している一家からは、「ラジオ、電池、ろうそく、電灯、インスタントの味噌汁やカップラーメン、携帯が使える見込みはまだないが電池式の携帯充電器」などの物資の要望を受けました。
 市内に入ればまったく通信が途絶えるため、逆に情報が得られなくなる状況でもありました。
 自衛隊やさまざまな援助隊が現地入りしていますが、食料や燃料、通信設備などまだまだ不十分な状況です。


《2011年3月11、12日》
東北地方太平洋沖地震で大津波、沿岸で甚大な被害

 3月11日、午後2時46分、三陸沖でマグニチュード9.0(後で修正)という最大規模の地震が起き、三陸沿岸地域に大津波が襲いました。被災された皆さんに心からお見舞い申し上げます。全力をあげて被災者の救援と復興に取り組む決意です。
 地震が発生したのは県議会予算特別委員会の審査中でした。かつてない大きな、長時間にわたる地震で尋常ではないことが痛感され、議会は直ちに中断し、県当局が全力で災害対応できるようにしました。直後から県全域で停電となり、県庁は自家発電で対応しました。電話も携帯も不通となり、沿岸地方の議員はもとより全く連絡が取れない状況となりました。議会の控室でテレビの災害情報にくぎ付けとなり、県の災害対策本部を訪問・激励しながら状況の把握に努めました。
 日本共産党県委員会は直ちに菅原則勝県委員長を本部長、私を副本部長とする災害対策本部を設置し、菅原県委員長も事務所が停電の中、県議会の控室に駆けつけ情報収集に取り組みました。
 12日は、早朝から県議会に駆けつけ災害対策本部を訪問・激励し菅野総務部長から状況を聞きました。午前10時からは県委員会で党災害対策本部で打ち合わせ。沿岸の地方議員・地区委員会の連絡状況を把握したものの、ほとんど連絡が取れない状況。
 午後4時には高橋千鶴子衆議院議員が青森から陸路で盛岡に駆けつけました。宮舘壽喜副知事を訪問し、お見舞いを申し上げるとともに災害状況について聞きました。宮舘副知事は午前中に、政府調査団と自衛隊ヘリで上空から大船渡、陸前高田などを視察してきた様子を報告。とくに陸前高田の状況は壊滅的な被害だったと述べました。
 県の災害対策本部も訪問し、菅野総務部長、小山防災対策室長から状況と対応を聞き、激励しました。とくに食料、燃料、毛布などが不足している。沿岸市町村の役場地震が被災しており、災害と必要な対策の状況が把握されていない。自衛隊や緊急消防が派遣されており、そこから情報が入りつつあると述べました。また、全県で交通規制を行い緊急車両優先の体制を取っていると述べました。全国から30台のヘリも活動し救援救出に取り組んでいると報告されました。
 13日、早朝から災害対策本部を訪問し、激励しつつ状況を把握。11時から労組・民主団体と共同の対策本部会議を開きました。菅原県委員長がこの間の経過と対応について報告し、高橋千鶴子衆議院議員があいさつ。私から災害の状況と県の対応状況について報告し、各団体から状況報告を受けました。
 午後から、夕方にかけて陸前高田の藤倉泰治市会議員の消息を確認、被災者を訪問し安否の確認に取り組んでいると報告がありました。藤倉市議は夜一関市まで来て、「現地はガソリン、灯油がないこと。米も停電で炊けないこと」など直接直訴しに来たと連絡がありました。久慈地区委員会の橋上地区委員長は野田村の宇部武典村議の安否確認に出かけ安全を確認しました。宇部村議の自宅は胸までつかる津波の被害を受けたとのこと。宮古の田中尚市議とも連絡を取れ、落合市議、崎尾市議とも地震発生の時には市議会中で市庁舎に避難、津波の状況を目の当たりに見たとのこと。その後地元に戻り被災者を激励しているとのことです。
 午後7時現在、死者が500人を超えたとのこと。5万3000人が避難していると報告がありました。

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